2015年2月16日月曜日

駆け出しのころ/フジタ常務執行役員国際事業部長・菅沼広夫氏

 ◇大切なのは心のオープン度  アルゼンチン大使を務められた津田正夫さんの著書『火の国・パタゴニア―南半球の地の果て』を学生時代に読み、自分もいつか南米に行きたいと思うようになりました。このため南米に強いフジタに入社したのですが、後から聞くと会社の海外事業はイラクに中心が移っていたころでした。  入社2年目、東京・大森のマンション建設現場に配属されます。最初は分からないことばかりで、学生の時に思い描いていた仕事の内容とも違うために悩んでいました。そのころに佐々淳行さんが書かれた『危機管理のノウハウ』にたまたま出会い、建設現場はまさに毎日が危機管理なんだと分かりました。それ以降、前向きに仕事ができるようになりました。  国内の現場を担当して11年ほどがたち、海外勤務の機会はもうないだろうと考えるようになっていたころのことです。関東建築支店に異動となったため、栃木に家を買ったのですが、入居して3カ月ほどで中国・西安への転勤が決まります。34歳の時でした。  1989年5月、転勤する2日前だったと記憶していますが、中国・北京に戒厳令が出されました。そのニュースを家で知り、会社に電話して対応を聞くと「(海外では)よくあることなので、そのまま行ってください」との返答でした。しかし、転勤して間もない6月4日に天安門事件が起こります。私たちは上海を経由して帰国しましたが、1カ月ほどして再び中国に戻りました。  西安では当社が投資するホテル建設事業に携わりました。施工は現地の建設会社です。大きなアトリウムにエレベーター3台を設置するため、全体の芯を決める墨出しをどうやるかで皆が悩んでいたので、私がやって基準を示したことがありました。それまでは中国の方たちにどこか日本から来たお客さんといった見方をされていましたが、これをきっかけに認めてもらえたような思いでした。  西安での仕事が終わると次は上海に移り、工場建設などを担当しました。最初は会社から1年半だけという話だったのですが、それが19年になりました。  若い人たちにはぜひ海外に出てほしいと思っています。国内でも出身地とは異なる地域に行くと、文化の違いを感じます。海外だから合わない人がいるといったことではなく、心のオープン度があれば国内外を問わずうまくやれる人はやれます。海外に出てみると何かを得られるものです。  (すがぬま・ひろお)1977年北大工学部建築工学科卒、フジタ工業(現フジタ)入社。04年フジタ国際事業部中国部長、06年国際事業部副事業部長、07年国際事業部長、10年執行役員、12年4月から現職。藤田(中国)建設工程董事長。秋田県出身、60歳。

中国・西安のホテルに職員組合幹部(当時)が訪れた時の一枚

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