2015年8月31日月曜日

【駆け出しのころ】熊谷組執行役員名古屋支店長・岸研司氏


◇土木技術者は地球の医者であれ◇

 幼いころから建設現場を見るのが好きでした。近所に工事現場があると、飽きもせず、よく眺めていました。「モノ」が出来上がっていく過程が面白かったのでしょう。そのころから、いつかは自分もものづくりをしてみようという気持ちが芽生えたのかもしれません。

 大学で土木を学び、就職時に考えたのが、直接ものづくりに従事できるゼネコンへの就職でした。福井県出身でしたので、熊谷組には親近感もあり、土木に強い会社ですので、迷わず入社しました。入社後の配属先は「土木設計部」でした。入社時の面接で「設計と現場のどちらがしたいか」と聞かれ、「両方」と答えたのですが、新入社員は現場に配属されると思っていましたから、意外で少し驚きでした。

 土木設計部では、現場の技術的な支援や仮設設計などが主な業務でしたが、数値解析や研究開発など、業務範囲は多岐にわたっていました。ある時、建設コンサルタントの方に設計図面の受け取りを拒否されたことがありました。当時CADはありませんから、すべて手書きです。図面自体に間違いはなかったのですが、どうも私の書いた数字が合格とならなかったようです。土木の図面は数字の格好が独特で、それに対して私の数字は「勢いに欠ける味のない数字」だったのです。それで必死になって数字の練習をしたのを覚えています。

 「マルチフェイス(MF)シールド」の開発に携わったことも印象に残っています。開発スタッフの一員に入れてもらい、三菱重工業と共同で10分の1の模型実験やJR京葉線京橋トンネルでの実機の施工データの分析などを担当させてもらいました。トンネルは円形というのが一般的でしたから、常識破りの複円形断面シールドの開発に携われたことは、技術者として無量の喜びでした。

 土木設計部は入社後10年間在籍しました。やるからにはその道のプロになろうと、夜中にロードワークを兼ねて自転車を飛ばして新宿や渋谷の居酒屋に入り、専門書を独り読みふけった時期もありました。

 卓越した知識を得て、その建設現場の条件や働く職員・作業員の考え方、働きぶりも考慮して、はじめて最適な設計や的確な技術対応ができる。そんな思いで仕事をしていました。設計の観点から現場を見る眼を養えたことは、その後、現場に出た際に大きな財産となりました。

 入社当初、ある先輩が「土木技術者は地球の医者であれ」と教えてくれました。土木設計部の仕事はそれを肌で感じることができました。この言葉は、一人の技術者として今も私の原点になっています。

 (きし・けんじ)1983年京都大学大学院工学研究科修了、熊谷組入社。08年土木事業本部土木部長、10年関西支店土木事業部長、13年執行役員関西支店副支店長、14年4月から現職。福井県出身、56歳。

新入社員時代。入社後すぐ「土木設計部」に配属された


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