2015年9月8日火曜日

【新連載が始まります】東日本大震災5年-命の現場で・プロローグ 「何が正解か-復興へ渦巻く思い」

震災遺構として保存が決まった南三陸町防災対策庁舎。
発生から約5年、被災地の復興で人々は何を思っているのか…
 「ここは東日本大震災の被災地だ。津波が来たらとにかく逃げてほしい」。宮城県女川町の復興工事を進める鹿島・オオバJVで安全管理を担当する原吉憲氏は、現場に新規入場者が来るたびにそう呼び掛ける。あの日、移り住んできた女川の街が津波にのまれる姿を目の当たりにした。命の重さが身に染みた。復興のために来てくれている人から犠牲を出してはいけない。娘たちの故郷を安全に造り上げたい―。その思いが仕事の原動力だ。

 7月に街開きがあった宮城県岩沼市の玉浦西地区。洋服直しの仕事をしている斎藤洋子さんは「造成のトラックとすれ違うたびに『ありがとう』という気持ちになった」と振り返る。和歌山から来た工事関係者のズボンの直しを手掛けた。「こっちの冬、こたえるでしょう?」と聞くと、「もう帰りたいです…」。こういう人に助けてもらっているのだと感じた瞬間だった。

 被災地では、復興工事に尽くす建設業に感謝の声が上がる。だが、それだけとも言い難い。宮城県気仙沼市の建設会社、小野良組の小泉進社長は「お金をもらうのだから当たり前という風潮もある。だから、自分たちが誇りを持たないといけない」と話す。

 建設業へのうがった視線、激務が続く就労環境、高水準の労働災害…。負の側面も少なくない。被災地は人口流出が深刻で、復興計画の縮小も相次ぐ。一つ一つの工事は、CM方式など工夫の成果もあって異例ともいえる速度で進むが、本当に違う道はなかったのか―。

 震災時、日本土木工業協会(現日本建設業連合会)東北支部長を務めていた鹿島の赤沼聖吾常任顧問は今、そんな思いに駆られている。少しでも多くの人を地域につなぎ止めるために、まず3~4年で可能な範囲で街が機能する最低限の基盤を先行的に整えるべきだったのではないか。「本気でやろうとすれば、できたはず」。そう思えてならない。

 復興に時間がかかるほど離散する被災者が増え、地域の再生は難しくなる。ギャップが大きくなれば「過剰な復興」と言われかねない。そうした批判が巻き起こったら、復興に奮闘している人たちはどんな思いを抱くだろう。

 社会基盤整備では、その費用に見合った効果が短期間で発現されるとは必ずしも限らない。完成後にその施設が活躍する姿を先に見ることができれば―。こうした構図は被災地に限らないが、膨大な事業が進む被災地だからこそ、より鮮明になっている。

 【お知らせ】 

 日刊建設工業新聞社は9月8日から、東日本大震災の発生から5年となる来年3月にかけて、本紙最終面に週1回、シリーズ企画『建設業 命の現場で~東日本大震災5年~』を連載します。

 津波で壊滅した街の再生や、住宅地の高台移転、防災・減災対策、原発事故に伴う除染作業…。建設業が復興に奮闘する現場を記者が訪ね、5年目を迎えた被災地の断片をさまざまな角度から切り取ります。当社HPにぜひアクセスを。

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