2016年2月8日月曜日

【駆け出しのころ】東亜建設工業執行役員国際事業本部長兼国際事業部長・石井誠一郎氏


 ◇話せるものを持っているか◇

 中学3年生の時に友達の家が経営している建設会社でアルバイトし、そのころには将来は土木か建築の道に進もうと決めていました。入社1年目は九州支店で設計や積算の業務を担当します。会社には「現場向きの新人」と思われていたため、上司に「1年間は設計を勉強したい」とお願いしたのです。学生時代から社会に出たら成功したいという思いが強く、何でもやる覚悟でした。

 2年目に佐世保の現場に勤務し、プライベートではバスケットボールのクラブチームに入ります。練習は夜9時から。現場での仕事が終わってから車で練習に向かい、会社の寮に帰ってくるのは午前0時を過ぎてからという日々でした。現場の朝は早く、睡眠時間をなかなか取れませんでしたが、まだ若かったですし、とても充実した生活でした。当然、現場の人たちのフォローがなくては続けられなかったと思います。

 九州支店から東京支店に異動する際、会社からの指名で国際適応化研修を受けます。30年ほど前に制度化された社内研修で、当時は1カ月ほどの期間でした。その後、都内の英語スクールに半年ほど通います。ここは入学試験の成績で五つのクラスに振り分けられ、私は真ん中のクラスでした。もともと海外志向ではなく、乏しい英語力しかなかったのですが、卒業時には全クラスを代表してスピーチできました。

 このスクールで普段から他の人たちが英語で話すのは堅い話題ばかり。これに対し、私は自分が好きなパチンコの必勝法や、バスケットのクラブチームで長崎県代表になったことなどを話すので、簡単な英語でも皆が関心を持って聞いてくれ、いろいろ質問してもくれました。こうして英語力が付き、話す内容も面白かったため、卒業のスピーチを任せてもらえたわけです。

 入社して35年がたちました。海外の仕事に携わってからは30年で、このうちイラクを皮切りにイラン、モルディブ、インドネシア、ギニア、シンガポール、サハリンなど海外での勤務は通算17年になります。これまでの経験から言えるのは、外国での仕事に年齢は関係なく、人と人のつながりが非常に大切だということです。そして海外では語学ではなく、自分が話せるものを持っているかどうかも重要です。

 ラグビーの名選手だった松尾雄治さんは、「自分は足が遅いから全日本に入れた」と言っています。大変な努力をされたのです。私はこの言葉が好きです。会社に入って努力したら、それまでとは違う自分を出せます。学生のころまでの自分でよいという若い人もいるかもしれませんが、会社でグループのリーダーとなっていくには努力が必要です。

 (いしい・せいいちろう)1980年東工大工学部土木工学科卒、東亜建設工業入社。91年ワシントン大建設学部コンストラクションマネジメント科修士取得。国際事業部工事部プロジェクト室長、国際事業部副事業部長兼工事部長などを経て、14年4月から現職。東京都出身、60歳。

1980年代に赴任したイランで(2列目左端)
造船所の桟橋建設に携わった


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