2017年7月25日火曜日

【駆け出しのころ】大和ハウス工業取締役常務執行役員建築事業推進部長・浦川竜哉氏

 ◇目の前の景色を変えた仕事◇

 中学2年の時、登山家の高田光政さんが書かれた『北壁の青春』を読み、「自分が求めていたのはこれだ」と山登りが好きになりました。登山を通じて地理にも興味を持つようになり、大学は文学部地理学科に進みました。

 卒業後に大和ハウス工業のキャリア採用面接を受けた時のことです。都市計画の仕事に携わりたいと希望したのですが、「空きはない」と言われ、私は「それならいいです」と帰ってしまいました。しかし、会社から「東京の建築事業部でどうか」といったお話を頂けて入社します。

 後で聞いた話では、面接官3人のうち2人が「こんな頑固なやつは駄目だ」と「×」の評価だったのに対し、もう一人の面接官である建築事業部の部長だけが「頑固だけど伸びる可能性がゼロではない。俺が引き取る」と周りを説得してくれたそうです。このことを知り、人のご縁の大切さをものすごく感じました。

 最初に配属されたのは、建築事業部の中でも請負だけでなく、土地の有効利用も手掛けていく部署です。入社して半年ほどたち、当時としてはかなり大型の事務所ビルを請け負えるかもしれないという話が舞い込んできました。お客さまは大変に厳しい方で、借り入れの組み合わせなどについて次々と難しい宿題を出され、これを会社に持ち帰り、夜のうちに対応するという日々でした。会社の警備員さんには「浦川さん、また会社に泊まりですか」とよく言われたものです。

 建築不況の頃であり、この物件を受注するために1年間追い続けました。十数社いた競合が絞られ、最後の決勝戦まで行ったのですが、結局は受注できずに終わりました。これには力が抜け、「この1年は何だったのか」と悔やみ切れませんでした。

 でも、これを契機に目の前の景色が変わります。毎日のように出された難題に必死に答えていたことで、他のお客さまからの要望にすぐ対応できるようになっていたのです。すると仕事もどんどん取れるようになっていきました。こうして振り返ると、私はお客さまや上司、先輩、後輩に恵まれてここまで来られたとつくづく思います。

 どうするか迷ったら、まずはやってみることが大切です。大和ハウス工業は、チャレンジしないことのリスクには厳しい会社です。若い人たちは、萎縮せず、そういったチャレンジさせてもらえる権利をぜひ謳歌(おうか)してほしいものです。

 何が世の中、世の人のために役立つかを第一に考えて仕事をすれば、おのずと世の中から喜ばれ、評価され、支持されて商売は成り立っていく。これが創業からのDNAであり、私たちがこれからも伝えていかなければいけないことです。

入社1年目に冬の富士山頂で撮影した一枚
(うらかわ・たつや)1984年立正大文学部地理学科卒、85年大和ハウス工業入社。執行役員東京支社建築事業部事業部長、常務執行役員東京本店建築事業部事業部長兼建築事業推進部長などを経て、17年6月現職。12年明大大学院グローバル・ビジネス研究科修了。神奈川県出身、56歳。

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